人間ウォッチの中でも興味深いのが、イデオロギーに凝り固まった人間を
観察するのがおもしろい。何が彼らを突き動かし、どこへ向かっていくのか。
利権?怒り?解放?だいたいそんなところじゃないだろうか。
 
一連のヘイトスピーチ問題の流れをみているときな臭いものしか感じない。
そのきな臭さがどこからやってくるのかをずっと考えていました。
そしたら、いい例がやってきましたね。
パク大統領による産経新聞元ソウル支局長の拘留と送検です。

内容については詳しく書かなくても、ネットをやってる人なら大まかな流れは
つかんでいるだろうから割愛しますが、いくら反日ならなんでもありの韓国
国内からも、国際社会の批判を受けて腰が引き始めました。

仮に犯罪なら、きちんと名誉毀損とか侮辱罪で訴えればいい。
それを言わせないようにする言論弾圧は、世界を見渡してもかなりやばいも
のだというのをだんだん感じてきました。

その見方で日本のヘイトスピーチ規制を考えれば、危険極まりないものでしょう。
オイラも「死ね」とか「殺せ」なんていうのはさすがにアウトだと思います。
しかし「出て行け」「帰れ」くらいは、なぜそう思うのかという理由を掲げれば、
まだ許せる範疇だと思うんですよ。

思い起こせば「天皇制」「拉致問題」「9条改正」について、口に出してもいけない
議題に載せるなんてもってほかという時代が続いたことを忘れてはなりません。
つまりは口封じであり、いい悪いに関係なくとにかく話すなという姿勢は日本に
も言論統制がマスメディア主導であったといえるでしょう。

以前にも書いたけど、「風立ちぬ」という映画に対して井筒監督はつまらない、
くだらないし戦争賛美だと一刀両断しました。
そう思ってる人はたぶん少数派で、日本における戦争映画の多くは戦争の悲惨
さや愚かさを描くものが多く、時には 怒りすら禁じえません。

なぜあれがダメなの?しかも「火垂るの墓」 でさえ、彼らのようなイデオロギーの
ひとからすると許せないのだという。
どういうことかといえば、戦争を仕掛けた日本人は痛い目にあえばいいし、自分
立ちも被害者のように描写するのもおこがましいというのがあるようです。

まったくもって酷い話だと思う。被害者でないと戦争を語れないの?
世界史をみればどこの国も戦争をし、他国を侵略し、時には勝ち、時には負けを
体験し、中には歴史から抹殺された民族も多々あります。

戦争の怖さ恐ろしさは、誰もが加害者になり、誰もが被害者になることでしょう。
韓国について憤るのも、自分たちが被害者の視点からばかりで、加害者であった
ことを完全に忘れてしまっていることにあります。
 
つまり、言論を弾圧し、議論させなくするというのも戦争と同じくらい酷いもので、
相手の言い分を否定し、口封じした時点で戦争加害者と同じだと思います。
なぜなら一方的ですから!

韓国人が国際法を無視し、在韓日本大使館の前に像を建て、そこでデモを行い
安倍さんの写真や日の丸を焼いています。
腹立たしい行為だけど、我々はなぜそのようなことをするのかを考えます。
結果はご存知の通りバカバカしいことばかりで、平行線のままになるのですが、
それでも聞く耳を持つというのは大切でしょう。

オイラ自身、少しは大人になったかなと自覚したのは、理不尽なクレーマーに
対峙したとき、感情的にならず冷静に対処できたときでした。
当初は何も思ってなかったけど、その後に周囲からも褒めてもらい、勝てばいい
言い負かせればいいというのも社会的には違うんだなと思ったものです。

そういう観点で先日の橋下市長vs桜井会長の顛末において、オイラがどう
言いたいかはおわかりのことでしょう。
市長はよく「編集される」ということを話してて、少しは同情してたんですが、
あれだと激高するように誘導されるに決まってると・・・がっかりしました。

長くなったけど、本当に言っていけない例えば相手の身体的欠陥や生まれな
がらの障害のように本人とってどうしようもないことってありますよね。
差別問題にしても似たような部分はあれど、何を問題にして怒っているのか
を考えないまま封殺しても、より深いものになってしまうだけでしょう。

地球のあちこちでは言い合いどころか、殺し合いになっています。
そしてその根元は相手のことを理解しようとしない不寛容な心です。
平和を唱えたり、戦争反対する人がそういう気持ちのままだと戦争は決して
終わりのないものであり、煽ってほくそ笑む人間が喜ぶだけでしょう・・・