被災した人たちが頭に来るのは、被害状況も知らず足も運んでないくせにぬく
ぬくした建物の中で、偉そうにあれこれ語る人たちも入るだろう。
阪神大震災の後に朝まで生テレビがあり、その中でサヨの有名なおっさんが
(今は故人となった)そうしたコメンテーターやテレビ局の人間に怒りを向け
ていたとき、確かに兵庫県人としてそういう人たちに腹が立ったけど何かが違
うとも感じた。
グーの根も出ない司会者田原総一郎をはじめとした論客たち。
でも何だろうこの違和感、おっさんも何かちゃう気がする、その何かは?
そのとき、当時の若手論客として名を売り始めていた宮台真司が反論した。
「あなたは被災者でたいへんなのはわかる、でも経験してないから語るな言うなはおかしいじゃないか、それにあなたの友人たちは日ごろ国や行政にああでもないこうでもないと言う、今回あなたの友人たちは駆けつけてきたのか、それにあなたは震災前にあった国内海外問わず被災者に対して何かしたことがあるのか」
それを聞いたとたん反論はなくなった。
オイラだって阪神大震災や地元の群発地震に兵庫北部を襲った大洪水までは、
「うちらのところは他所と違い災害が少ないねえ」なんてのん気にしてた。
何千人規模の死者は戦後では台風を思い起こすけど、それすらもずい分昔の話、
恐い怖ろしい被害にあったらたいへんだと思っても、しょせん頭の中の話。
大戦経験者が現代の人たちに戦争を語っても少し違うように、戦争を知らない
人たちと天災を知らない人たちは似ていると思う。
だから被災経験者がたいへんだと思い、どうして声をかけたらとか、自分た
ちの行為は偽善だろうか迷う人たちがいるがそれも違う。
心配し寄付をした時点で立派な行為、それを偽善なんて言う奴は先の話同様、
それまでの被災者に何かしてきた人間なのかと問い正したい!
まったく被災してなくても寄付してくれたり、ボランティアしてくれる人を
偽善だからなんてよく言える。偽善は善良を偽ることでしょ、善い行為と思
わせながら利益を得たり、名を売ったり、本心の行為でないとか腹黒い行為
や信用できない行為だと思われる。
確かにそう見える人たちもいる。
でも今は未曾有という言葉の通り、日本人全員が直接間接の被災者という
状況は戦後初つまりほとんどの人にとって初体験でしょう。
そういうときに偽善という言葉を使い、親切な人たちを萎縮させる行為は
今一番してはいけないし、被災者だからといって好き勝手言っていいという
ものでは決してない。
そこをよく見極めていないと一枚岩になることは出来ないでしょう。
日本には良い人がたくさんいる!
だからこそクソみたいな政治家がいてもこの国は持っているんだからね。
汚い連中を見ているとキリがない。
良い人たちがたくさんいるというのを見る目も養うべきです。
そういうのは残念ながら悲しいときや辛いときにわかるもの。
それが今だとオイラは思いますね